一部の国持大名の藩を除いて、藩の領地は中心城と城下町周辺と、その他は少し離れた飛び地を持っていた(相給)。この傾向は特に10万石前後の譜代大名に多く見られる。京都付近の淀藩は山城など近畿のほか遠く上総まで所領を持っていたが、これは稲葉家が上総から淀に移封する際に付いてきた物と考えられる。こういう例は意外と多い。
幕府の各大名の支配方法として、参勤交代と御手伝いの義務のほか、将軍の娘をもらったり息子を養嗣子としたり、お金を貸し与えたりした。また、大名と大名の間を婚姻関係や養子関係で結んだりしている。
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なお、一部の例外を除いて、各藩は藩士への知行体制を18世紀初旬までに地方知行制(現地領主制)から俸禄制(サラリー制)へと変遷させている。
江戸時代初期、各藩は隣接する藩との間で境界争いが盛んとなった。有名な所では久保田藩と盛岡藩が干戈を交えるところまで発展した鹿角領争いであるが、これ以外にも仙台藩と相馬藩、萩藩と徳山藩などがある。これらは中期ごろまでに大体解決し、このとき決定した境界は現在にも引き継がれている。
この時代は農本主義のため、幕府・大名の拠点のある城を中心とした町(城下町)の他は基本的に農村と考えられていた。このため港の利益や鉱山の鉱物なども米に換算していた。大名たちは上納金を貢いでくれる城下町が栄えることは、みずからの発展と同義と考え保護政策をおこなった。
しかし、江戸時代中期に入り港町や宿場町などの発展、換金性の高い綿が栽培され始めるなど農村部に資本主義が流入され、また(これが最も大きいのだろうが)大名への献金が過重になり過ぎて商家の一部がつぶれるなど、城下町の衰退が目立つようになった。この農民の商売熱を冷まそうと幕府は田畑永代売買禁止令や帰農令などを発布するも効果がなかった。